子どもは別に、親に完璧を求めていない。

子育て

ふと、娘が夫と私に求めているものが違うように感じた。
それは夫が男親だから、私が女親だから、というわけではなく、私と夫の個性に合わせてな感じがする。

例えば、ブロックはパパと遊んだ時が面白かったから、パパにお願いしようと思ってそうだったり。
痛くて泣いている時はママがすぐ来てくれるから、こけた時はママを呼ぼうとか。

絵本を面白く読んでほしい時はパパ、落ち着いて読んでほしい時はママ、とかもありそう。

私たち夫婦は人間がそうであるように不完全な親であり、娘にとって完璧な親ではないだろう。
自分のどういうところが良い親であり、どういうところが悪い親なのかもよくわからない。

でも、そういうところを娘はよく見ていると思う。
彼女は彼女の体験の中で、親の得意不得意や、どういう遊びになる傾向が強いのかとかを学んでいる。
だから、その時の希望に応じてパパに戯れたり、ママに話しかけたりと自分で行動を選択している、気がする。

私は遊ぶのが夫に比べて下手だと思っているが、ブロック遊びはパパと楽しんでいるから私には求めていないように感じたのだ。
あるいは、別にパパと同じものを作れるとは思っていない。

じゃあ、何を私に求めるのかと言えば、察することだろうか。
もう少しで2歳になるとは言え、使える言葉は少なく舌足らずで聞き取りづらい。
彼女との会話には状況から読まなくてはならないことがたくさんある。

その「察し」は私の方が得意だと自負している。
だからか入浴や着替え、ベッドへの移動などの説得は私の方が得意である。

でも、ただ夫よりこういう場面で気が長いだけかもしれない。
しぶとく付き合うから、最後に娘が折れてくれているだけ。

でも、娘は実はこのやりとりを楽しんでいると思う時もある。
持っていくTシャツが問題なのではなく、「これは?これは?」と満足いくまで言わせたいのである。

夜の寝かしつけはママに軍配が上がるが、最近はパパにもおいでと言っている。
でもママさえいればどうにかなることも多い。

ママがダメならパパ、パパがダメならママ。
娘はうまいこと、そうやっているように見える。
その組み合わせで、その時のベストを作り出す。

有体に言えば、パパとママが合わせて完璧であれば良いし、なんなら完璧でなくても良いのだろう。

ただ、娘の中にパパとブロックをしたら楽しかったという記憶がある。
手足口病で口内が痛かった時にずっとママが抱っこしてくれた記憶がある。
だから、遊ぶならパパ、痛い時はママ。

そこにはマイナスを見る減点方式ではなく、プラスしていく加点方式がある。
そもそも娘こそ完璧な親とは何かを知らない。
ママもパパも今のままで大好きである。
だから、減点していく起点がないのである。

ただ、あれがあった、これがあった。
だからもう一度、あれをしたい、こうしよう。
そんな感じ。

娘は私たちに完璧な親であることは求めておらず(そもそも求められない)、今のままの私たちとうまいことやっていこうとしてくれている。
もちろん、うまくやっていくには私たちが折れることも多いだろう。
でも、ブロックが苦手ならパパにお願いするから大丈夫です、と娘の背中から聞こえた気がして、ちょっとホッとしたというそれだけの話なのだ。

ああ、全部を全部うまくあれと、この子は私に求めてはいないんだな。
ママはママのままで、私を愛せと言っている。
ママのやり方でいいから大切にして守れと言っている。
ほしい形と違う時はパパのところに行くからと。

そう思ったら、肩から余計な力が抜けた気がした、そんな雨上がりの午後なのだった。

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