時々、薄情な母親なんじゃないかと思う。

子育て

私は専業主婦だが双極症なので、1歳の娘は保育園に通っている。

今年2歳になる娘は、来年度までしか今の小規模保育園にはいられない。
転園先を決めなくてはならない。

娘には幼稚園がよく、私には保育園が良いのではと思うが、それはもちろん保育園の方が私のひとり時間を長く取れるからだ。

私には必要な心身休まる時間ではあるが、長時間娘と離れたいと思っている自分が、とても薄情な母親なのでは?と感じてしまい、今筆をとっている。

だいたい、こういう考えの時は「どうして双極症なんかになっちゃったんだろう」までがセットなのだが、今日は現れない。
たぶん、双極症でなかったとしても、保育園や幼稚園なしに娘と一緒に笑顔でいられる自信がないからだろう。

もちろん、双極症じゃなかったらもう少しストレスに強かったかもしれないし、パートもできたかもしれない。
そうすれば、娘にも金銭的な心配なく好きなことはやらせてあげられたかもしれないし、悩むことなく第二子を妊娠していたかもしれない。

とはいえ、それらができたとして、余裕がある母親だったかはやっぱり自信はない。
なんか良いお母さんしてる感はあったかもしれない。
個人として充実している感じ。

でも、ピリピリはしていたかもしれない。

人間には不機嫌な時もあるのだと娘は知っておく必要があるとは思うが、だからといって私がいつも不機嫌でいて良いわけではない。
家庭内がピリついてしまえば、夫は仕事で不必要にイライラするかもしれないし、娘も不安定になるかもしれない。

まあ、この病気になると、この病気じゃなかったらとたくさん仮定をしたくなるのだけれど、そんなもの意味をなさない。
私は、もう双極症であるのだから。
ストレスに弱く、打たれ弱く、そもそものHPが少ない体なのである。

それを鑑みた時に、この体とうまく付き合うために娘と離れる時間が欲しいと思うのは当然だが、「欲しい」と思う時間が必要以上に長くないかと不安があるのだ。

私は不必要にひとりの時間を欲し、娘から離れようとしていないか。
つまり薄情な母親ではないか、ということである。

おお、ぐるりと回って初めに戻ってしまった。
これじゃ何も言えていない。

ただ、やっぱりこの「娘と少しくらい離れたい」という気持ちが薄情なのだとすれば、私と家庭の健康のためには必要な「薄情さ」なのだと思う。

どれくらい娘と離れるのが妥当かなんて、誰にもわからないのだから。
「あなたにぴったりの娘さんと離れる時間は5時間です!」とかわかるはずがない。

でも、ふと、娘と離れたい自分が薄情なんじゃないかと思えるのは、幸福なのではと思ったりもする。
つまり、「『娘は私といたいのに』私は娘といたくない」ことを悩んでいるからだ。
私が娘に愛されていることを前提としているからだ。
そして、結構この前提は正しい。

私は娘に愛されており、娘は私のことが大好きなのである。
だから、四六時中一緒にいてあげられなくて罪悪感が湧き上がってくるのだ。

これは幸せな悩みである。
同時に、考えなくても良い悩みでもある。

だって、どう見ても、娘は保育園で楽しそうに過ごしているからである。
すんなりと登園できるし、降園の時もご機嫌である。
娘は、今、とても良い保育園に通えている。
そう思える。

だから、仮に娘がもっとママといたいと思っていたとしても、ママと離れている時間が不幸かと言えばそんなことは決してない。
たぶん、正確に表現すると「ママと一緒にいたいけど、楽しいから別に保育園でも良いよ」だろう。

なんなら「保育園で遊びたいんですけど?」の時もある。
数日、熱で保育園を休んで家に篭っていた娘は、いい加減外に出たいと保育園のリュックを掴んだことがある。
私は元気だ、遊びたいから連れて行け、という意味であろう。

だから、結局、幼稚園だろうが保育園だろうが良いのだ。
娘を預けている時間が多少長かろうが短かろうが良いのだ。
大切なのは、その幼稚園なり保育園なりが娘にあっていることであり、彼女が楽しく通えることである。

今はイヤイヤ期なのもあり、娘とのやりとりは疲れる時もある。
これが、3歳頃になると落ち着くという噂も聞くから、悩むのはその時でも良いのかもしれない。
(とはいえ、幼稚園か保育園か悩むのには遅いかもしれない)

この世にはたくさんの選択肢があるから本当に悩んでしまうのだけれど、それも愛しい家族となるべく楽しく過ごしたいという気持ちからきているものだとすれば、喜ばしいことなのかもしれない。

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