たぶん、双極症になって絶対に家を出なければならない用事が減ってからだと思うのだが、雨の日は家に篭るようになった。
「ああ、今日は雨か、どこにもいけないな」
そんなことを思って、じっとしていた。
そして今日、エアコンをつけなくてもどうにか過ごせるような涼しさになり、窓を開けて過ごしている。
少し開けた窓から、水の流れる音が聞こえてくる。
これが心地よかったのだと、ふと思い出した。
雨の中、ばしゃばしゃと靴を濡らしながら歩いて登校し、いつもより薄暗い教室で授業を受けながら、ずっとこんな音がしていた気がする。
涼しいような、単調なような、落ち着くような、そんな水が屋根やら地面やらを打つ音。
どこかに溜まった水が溢れて流れ落ちる音。
あの時私は子どもで、そして幸せだったと、なんだか思った。
何も知らないが故の、幼いからこそ持てる自分の今と将来への絶対の自信。
それは揺るがなかった。
この雨の音に耳をすまさなくなったのはいつ頃か。
中学生か、高校生か。
遅くとも高校時代にはこの音に涼やかさを感じてはいなかった気がする。
目の前の板書をノートに写し、理解するので精一杯だった。
要するに、教師の声しか耳に届いていなかった。
あの頃もまだ幼く、ある意味愚かだった。
絶対的に正しい大人は存在するとまだどこかで信じていたし、自分の学校の教師はそれに当てはまると思っていた。
高校時代お世話になった教師たちは、悪い大人ではなかった。
尊敬できる人間だった。
でも、志望校はその口車に乗りすぎたなとは思わないでもない。
もう少し、下の志望校でもよかったと思う。
それらはさておき、久しぶりにゆったりと雨音に耳を澄ますことができている。
心に、余裕が出てきたかなと思う。
それはいつと比較してなのかはよくわらかない。
この病気になった時からなのか、母になった時からなのか。
病気になりたての頃は寝ているしかできなくて、周囲にあるあらゆる優しさをシャットダウンして嘆いていた。
あの頃に、「余裕」なんてものはない。
「余裕」とか「焦り」とか、「衝動」とか「意欲」とか、バランスが難しい。
あの寝込んでいる時期に、変なアクセルが踏まれてしまえば死んでいたと思う。
ベクトルが変な方向に行ってしまう感じ。
あの時はエネルギーがないのが正しかった。
布団に張り付いているのが正しかった。
そうでなければ、私は生き残れなかった。
今は運良くバランス良く回復できているようだ。
雨音が楽しいし、ゆったり過ごそうと思える。
エネルギーは、保育園の帰りに娘をパン屋に連れていくのにとっておかないと。
「あめ」
保育園に向かう車の中で、娘はそう何度も繰り返した。
珍しいのかしら、なんて思った。
世界にはいろんな光景があり、事象があり、それらを感知できるようになってきたのかもしれない。
娘もこの雨音を楽しんでいればいいと思うけれど、保育園は騒がしくてそれどころではないかもしれない。
それなら、家で一緒にゆったりと聞いてみようか。
聞いてくれるかな?
「アンパンマン見たい」って言われるかな?
明日は曇り、明後日は雨かもくらい。
じゃあ、明後日雨だったら一緒に外を眺めてみよう。
雨の日も、晴れの日に負けないくらい素敵な日なのだと、娘には思っていてほしいなと勝手に望んでしまうのだった。