家事にだって価値がある

夫婦関係

「食器下げといたから!」

だったかはさておき、かつて夫はやった家事をアピールするタイプであった。
私からすれば、食事が終われば食器を片付けるのは当然であり、それをわざわざ伝えてくるのがよくわからなかった。

むしろイラっとする。

当然のことをしただけの夫に「ありがとう!」と言わなくてはならないから。
でも、それをうまく伝えられる自信はないから黙っていた。

すると、次もまたアピールしてくる。

–ああ!もう!

–家事はやって当然なんだって!

–なんでやったことをアピールしてくるんだよ!

私はイライラしつつ、でもこの気持ちを伝えれば喧嘩の未来しか想像できず、作戦を変えることにした。
私も夫と同じようにアピールをすることにしたのだ。

「洗濯しといたよ!」

「掃除しといたから!」

どうだ!言われるとイラっとするだろう!と思っていた私の心が汚れていた。

「あ!ありがとう!」

夫はキラキラの純粋な笑顔でお礼を言ってきた。眩しかった。

–なぜだ?私の方がおかしかったのか?

–家事って、やったことをアピールしてお礼を言われる営みなのか?

–やって当然、だからお礼なんて、が間違っていたのか?

ちょっと混乱した。

でも、夫は変わらずだったから、私も粛々とアピールを続けた。
そうすると、気分が良くなることに気がついた。

家事はもしかしたら本当にやって当たり前なのかもしれない。
でも、じゃあ、そこに感謝の意がなくていいかと言われればそれは違う。

家事は、人の生活の根幹に関わる重大な営みである。

生活が整わないと、とかく私の体はすぐに疲れて調子が狂う。
だから、私ほど影響を強く受けなくても、他の人も多少は影響を受けるだろう。

手料理を食べていると体調もメンタルの調子も良くなる。
夕食がスーパーの弁当の日々が続いた時は、なんとなく心身ともにだるかった。

家が綺麗だと気持ちもスッキリする。
なんだかイライラする時は、部屋が散らかっている時だったりする。

心身の健康を保つのに、家事は必要不可欠だ。

そんな大事なことに、「ありがとう」を言わなくていいなんて、私はいつの間に思い込んでいたんだろう。

私の実家では、家事は全部母がやっていた。
介護の仕事をパートで始めても、それは変わらなかった。

幼い頃、母は父を立てていた。
父は四年制大学を出ていて偉いのだと。
頭がいいのだと。

だから、なんとなく家の序列を「父>母」のように感じていた。
それにつられて、私は母に付随していた家事も、父に属する仕事より劣るものだと感じていたのだろうか。

だとしたら、なんというか、実家は少し問題があったようにも感じる。
ちょっぴり男尊女卑だったのかもしれない。
父も、私と弟の性別が逆だったらよかったと言っていたし、そういう性別的役割観念の強い世代だったのかもしれない。
あるいは地域性。

そんなわけで、私は家事を舐めていた。
家事の価値を舐めていた。

家事だって立派な営みだと教えてくれた夫には感謝しないと。
家事に対する評価を変えられたから、家事を担う自分を好きになれたんだから。

双極症になって、仕事を半年続けては辞めるを繰り返し、今や専業主婦の私。
そんな自分が嫌いだった。
お金を稼げない自分が、ひどく未熟な半人前な大人に感じた。
「大人」と言う言葉にふさわしくない人間に感じていた。

でも、家事をやると夫が喜んでくれる。
「ありがとう」と言ってくれる。

そのやり取りの中で、私は自分を好きになることができた。
家事で家族を支える自分にも価値があると思うことができた。

だから、やってもらったらありがとう。
これからもそう素直に思い、伝えられる家族でありたい。

男女関係なく、有給か無給か関係なく、仕事も家事も価値ある営みなのだともっと広まればいいのにと思うこの頃だ。

最近は専業主婦への風当たりを辛く感じており、「仕事>家事」「有給>無給」の考えを強く感じる。
働き手不足を解消するために、労働力として高齢者や女性が狙われているのだろう。
でも、それで「仕事>家事」「有給>無給」まで行ってしまうのはちょっと間違いだと思う。

向き不向きやできるできないがあるのだから。

何か一つだけが尊いのだと、そんなことはないはずなんだけれど。

私の考えが間違っていたのだとしても、私は「家事と仕事には同等の価値がある」と思わないと自分の存在を否定してしまうから、考えを変えるつもりはない。

うん。そうだ。

自分が生きやすい考え方をするのが1番なのかもしれない。
もちろんそれで他者に迷惑がかかるなら変えなければいけないけれど。

今のところ、私は迷惑をかけていないと思うから(迷惑をかけられている筆頭の夫がそう言わないから)、この考えで行こうと思う。

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